歴史散歩 RSKISHISANPO

星乃岡古戦場跡

天下分け目の大決戦 星乃岡の戦いとは・・

元弘の変(1331年)後、次第に衰微してしいく鎌倉幕府を倒し王政復古を目指した後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を受け、久米郡の土居通増、桑村郡得能(周桑郡丹原町)の得能通綱温泉郡忽那島(中島)の忽那重清越智郡大三島の大祝安親らが兵を挙げた。

元払3(1333)年、長門探題の長官であった北条時直は、伊予の勤王軍討伐を目指し兵を率いて2月2日越智郡の石井浜(今治市近見)に上陸したが土居通増たちの攻撃をうけて敗退し3月に入り再び水居津(松山市今出か三津付近といわれる)に上陸して星の岡城を占拠した。

3月12日、この付近に集結していた土居、得能、忽那、大祝らの連合軍の攻撃開始で久米地域は激戦となり戦線は平井付近まで及んだ。

探題府の兵は全滅に近い敗北となり多数の馬鞍・兵糧米等を捨てて時直は身ひとつで逃れたといわれる。

かくて時直の伊予の国を制圧しようとする計画は完全に失敗したそしてこの星乃岡の戦いが諸国を動かし、朝廷に応じる武士が次々と出て、建武新政と呼ばれる王政復古成立の大きな原因になったといわれる。

尚、この当時はまだ足利尊氏も新田義貞も朝廷側に属していない時であった。

昭和38年12月故後藤信正は南北朝時代の古戦場として郷土史上にも燦然たるものがある有名なこの星乃岡で故に温泉場として繁栄すれば、昔の勇士らの霊の慰めとなり供養ともなるとの見地からが温泉掘削し星乃岡温泉として南道後温泉郷の雄として現在に至っている。

雲門寺

戦国時代、星岡は重要な戦略地域の一つで、相継ぐ戦乱の地となった。星岡古戦場跡にある雲門寺の薬師堂は、延久年間(1073年)に建てられたという。

星岡薬師堂

雲門寺の「奥の院」として星岡山の頂上にあり、「岡薬師瑠璃光如来」という薬師を本尊とする。特にイボ類それに類するすべての難病を除く仏様として古くから知られる。

辰岡天満宮

北野天満宮から御霊分けを受けた神社である。藤原氏の策謀により、昌泰4年(901)大宰府に左遷され、そのわずか2年後、大宰府の配所にて波乱の生涯を閉じられました。その途中瀬戸海を航行中、嵐に遭遇し遭難、越智郡桜井の海岸に漂着、陸路西下し松山に滞在した。

菅原公御腰掛石

その時この地に立ち寄られ一時の休息をされ、石に腰を掛けられて疲れた身体を癒されたと言う伝説の石があり、「菅原公御腰掛石」の記念石碑が建立されている。残念ながら菅原道真公が伊予に来たと言う証拠はない。
この神社の創建に付いては、伊予の守護河野氏がこの地に神社を興し、腰掛天神と呼んだと伝えられている。

仙波太郎

仙波太郎は安政二年(1855年)4月21日に、久米郡福音寺に生まれた。

南久米の三輪田塾に学び、直接米山の教えを受け明治7年の秋(20歳)の時陸軍教導団に合格、その後陸軍士官学校に入学、、明治16年に中尉となった彼は、故郷星ノ岡に土居通増・得能通綱らの奮闘の生涯を永遠に伝えるために松田通博・吉田格堂・鈴木安職らの有志と謀って土居・得能氏の古戦場に「星岡表忠之碑」を建設した。

同16年4月創設された陸軍大学第1期生として入学同期生に秋山好古がいた。 陸軍の三太郎「宇都宮太郎・桂太郎、後の内閣総理大臣・仙波太郎」のひとりと呼ばれた明治43年11月30日陸軍中将。

後藤信正

後藤信正は南道後温泉郷功労者である明治26年9月久米村酒造業の長男として出生、旧久米村村議、村長歴任 実業家

信正は昭和16年道後温泉新温泉掘削終了後その機械の払い下げを受け南久米137番地で温泉掘削に成功した現在の久米温泉郷への第一歩である。

温泉を掘り当てることによって、久米地区の地元の人々は申すに及ばす松山市の観光資源として発展に寄与すると確信した信正は昭和37年から次々と温泉掘削成功した。

昭和38年12月、信正は南北朝時代の古戦場として郷土史上にも燦然たるものがある有名なこの星乃岡で故に温泉場として繁栄すれば、昔の勇士らの霊の慰めとなり供養ともなるとの見地からが温泉掘削し星乃岡温泉として南道後温泉郷の雄として現在に至っている。

現在南道後温泉郷には多くのスーパー温泉施設が出来て県内外多くの人々の健康増進に役立ち喜ばれている。